〇私の出生とキリストとのちょっとした関係 昭和27年6月28日。香川県さぬき市において、農作業中の母親、突如産気づき、急いで帰るも母屋に入る時間的余裕もなく納屋で出産する。私はキリストか!? 体重 約4300g。既に姉貴を2人産んでいたため、それほど苦痛ではなかったと思われる。確認したわけではない。 |
〇赤ちゃんコンクールで優勝する 1歳頃行われた四国新聞社主催の赤ちゃんコンクールにおいて、香川県1位を獲得。その当時の新聞に私と似た顔が載っているのでウソではない。 ところで母によると、エントリーしていたそれぞれの赤ちゃんに配られたお菓子を片っ端から奪い取ったとのこと。可愛そうに、それほど飢えていたのか。 |
〇1回だけ、異常に良かった模擬試験のワケ 私の親父は小学校の教師をしていたが、何でも人に押し付けるのが好きである。ある時なんか自分の学校の生徒が受けた模擬試験の採点を私にやらせたのである。 確か5年生だったと思うが、私と同じ学年だったので当然ながら同じ試験を私も受けた。その時だけは何故か私の成績が異常に良かったように記憶している。 |
〇最初の自転車は親父と土方をやって購入した 私が通うこととなる中学校は自宅からかなり離れているため、どうしても自転車が必要であったが、そのための購入資金がない。 そこで小学校6年の夏休み、親戚の人が経営していた建設会社で土木作業を一週間ほどやって、その資金で購入する計画を立てた。 私1人では大変なので、親父を道連れに2人でがんばった記憶がある。小学校の教員というのは夏休みであってもアルバイトは禁止ということであったが、そんなことは私には関係ない。 真夏の炎天下、朝から晩までスコップで水路を掘り続けたのであるが、今でもその当時のことをよく覚えている。とにかく喉が渇いてしようがなかった。 自分の子供にもいずれ何らかの形で肉体労働の良さと大変さを経験させてみたいと考えている。 それにしてもアルバイトで土方をやったことがある小学生はあまりいないのではないだろうか? |
〇小学校から中学校時代はウサギを売って金にしていた 小学校から中学校にかけては、とにかく動物を飼うことが好きだった。山にいる様々な小鳥(かすみ網で捕獲する)、ハト、ウサギ等々、実に様々な動物を飼っていた。 単に飼うだけでは飽きたらず、ウサギに至っては子供をガンガン産ませ、それを大きくして業者に販売していた(どうも研究用に使うらしい)。一羽当たり300円ほどで売れ、それなりの小遣いにはなっていた。 また、ハトについても買いに来る人がいたので時々販売していたが、売ったハトが飛んで帰ってきた時は思わずニヤリとしたのを覚えている。もちろん購入者には知らせていない。 ハトを飼ったことがないと分からないが、徐々に馴らしていかないと箱から放した瞬間、元の飼い主の所にそのまま帰ってしまうのである。実は私も一度、悲しい経験をしている。何事も経験がモノを言う。 |
〇柔道の昇段試験でズルしたお話 私の中学時代は美空ひばりの「柔」とか、桜木健一の「柔道一直線」が大はやり。勉強が好きでなかった私は当然のごとく柔道部に入った。 それなりの成績も残したが、昇段試験ではちょっとズルをした感じである。ご存知かどうかは知らないが、柔道の試験の場合、実技だけでなく筆記試験もある。 実はその筆記試験の最中、試験官がやんわりと間違いを指摘してくれたのである。その試験官は全く存じ上げていないが、通りすがりに、選択肢の問題で私の答えと違う箇所を指差すのである。ピンと来た私は早速修正したのはいうまでもない。 私のあまりにも間違いの多い答案を見て、イライラしたのであろうか? 何と言っても、柔道の試験に勉強していくという考えが私の頭には全く浮かんでこなかったのである。したがって、できるわけがない。 どうも自分の子供達を見ていると、私のこのような性格が何となく受け継がれているような気がする。家内がいつも信じられないとこぼしている。 気のせいであってほしいと思う今日この頃である。 |
〇モチ運び大会で優勝する 中学校を卒業した年の春休み、何となく新聞を見ていると、今日モチ運び大会があると書いてあるではないか。暇をもてあそんでいた私は友達を誘い、この大会にエントリーすることとした。 モチ運びというのはご覧になった方もあるかも知れないが、要するに台の上に載せた大鏡餅を腰の上に載せて運んでいく競技で、その距離を競うわけである。 この競技でなんと私は優勝したのである。子供の部であるから、約60キロとそれほど重いわけではないが、私が運んだ距離は350mを越えていた。この距離を一直線で運ぶのではなく、20m程の距離を何度も往復するのである。 その競技を見ていたらしい知り合いのオバサンによると、形相はすごいし、手は紫色に変色していたらしい。賞品がかかると私は気合が入るのである。 いずれにしても優勝すると、その鏡餅を貰えるのであるが、自転車の荷台に載せて、フラフラしながら持ち帰って食べた餅のなんと美味しかったことか。 なお、準優勝したのは柔道のかなり強い他校の選手。してやったり、である。 |
〇幻と消えた円盤投げの県高校新記録 私の通っていた高校は香川県立津田高等学校。 元々女学校であったためか、女子のほうが人数的にも圧倒していた。場所的には高松と徳島を結ぶ高徳線の中間当たりで、海岸に近く、夏になると海水浴客で賑わっていた。 そこで私は1年の後半当たりに陸上部に入り、主に投てき種目をやっていた。柔道でも良かったのであるが、高校の柔道の場合には関節技が認められること、耳がつぶれる可能性があることから辞退した(意外と軟弱)。 ところで投てき種目のうち、私がやっていたのは円盤投げと槍投げ、砲丸投げであった(ハンマー投げは地面に大きく穴が開くので認められていなかった)。 残念だったのは香川県の大会で円盤投げの県の高校新記録を一度は出したが、同じ試合で私の後に投げた選手が私の記録を抜き去り、新記録がはかなく幻と消えてしまったことである。 なお、高校2年、3年とインターハイに出場することになったが(円盤投げと砲丸投げ)、残念ながら決勝に残ることはできなかった。イマイチ根性がなかったと反省している。 やはり全国規模の大会で良い成績を残すためには気持ちで負けてはならない。私の味わった教訓の1つである。 |
〇筑波大学、同志社大学を蹴って浪人する このようにインターハイに出場し、そこそこの成績を残したので、筑波大学(以前は東京教育大学)と同志社大学から入学しないかと勧誘があった。 その当時の私の成績(勉学の方)からすれば悪くない大学であるが、なにぶんプライドだけは天下一品。無謀にも断ってしまう。 当然ながら現役の時に受けた大学は全滅(受かっても入学するつもりはなかった)。必然的に浪人することとなるが、地元ではやる気が出ないので、同じ高校の友人と神戸で受験生活をスタート。 平日の勉強は約15時間、週末の1日は徹夜(テツヤ=哲也)である。お陰で、それまで視力が2.0あったのが(実際は3.0ぐらいあったと思われる)、0.2にまで下がった。 こんなに勉強したのは国立を受けたかったから。現役時代は私立しか受験していないにもかかわらず、浪人してから国立、それも一流大学を受験しようと考えたのである。 したがって高校時代はほとんど勉強しなかった化学とか日本史の参考書を新しく購入し勉強を始めたのであるが、やはり無謀だったようだ。 こんなに短期間に新しい科目がマスターできるわけがないのである。当然ながら不合格となる(それでも本人は受かるつもりでいた)。 なお、私が合格したのは慶応大学の商学部だけであるが、受験したのは先程の国立大学と早稲田大学の政経学部のみ。 この政経学部は早稲田大学で最も難関とされている学部であるから、安全パイは全くない。 ところで慶応大学の試験の前日、あまり自信のなかった世界史の参考書一冊をホテルで読破しようと計画。一応終了したが、終わったのがなんと試験当日の朝3時頃。 当然ながら試験中も眠くて仕方がない。それでも世界史はさすがにできたが、得意としていた数学の問題4問のうち1問がどうしてもできない。 解き方はすぐに分かったのだが、眠くて手が動かないのである。これができれば満点。チクショーと思いながら、バカなことをしたなと反省する。 |
〇大学進学するも、半年はロックアウトで授業なし このように苦労して入った大学も学園紛争で1年生の前半は全く授業なし。 仕方なく、適当な本を買って読み出したら、これが結構面白い。高校までマンガ以外ほとんど読んだことのない私にとって驚くべき出来事である。 高木彬光の「白昼の死角」とか松本清張の「砂の器」、和久峻三の様々な推理小説等をむさぼるように読んだ。 特に和久峻三の場合は弁護士であることから、手形を利用した犯罪モノが多いが、その仕組みがよく分からなかったので、手形・小切手の法律書を徹底的に勉強した記憶がある。 そうこうしている内に、大学生活にも少しずつ慣れ、マージャン等の遊びも覚えた。 ある時など、家庭教師の予定が入っているにもかかわらず、雀荘から断りの電話をしたところ、数日後に先方から断りの電話があった。ジャラジャラ音のする所から電話するのはやはりマズイ。 |
〇会計士志望と200万円 私が会計士になろうと思ったのは高校時代。珍しくラジオ講座を聞いている時、講師の思いもかけない話を聞いてしまった。 「会計士になると月収が200万円程になるそうですね。」 その当時、会計士なんて聞いたことのなかった私でも、会計という言葉がついている以上、数字を扱う職業には違いない。そこで私は次のように考えた。 私は数字が得意→数字が得意だから会計士の仕事は嫌いではないハズ→会計士になれば毎月200万円もの大金が得られる→これは会計士になるしかない、というわけで、いとも簡単に自分の将来象を決める。なんと私は俗物人間なのだろうか。 このように会計士になる夢だけは高校時代から決めていたのであるが、いつから勉強を開始したかと言えば、確か3年の4月頃だったと思われる。 大学の友人が既に2年の時から簿記学校でシコシコと簿記の勉強を始めており、私も誘われたのがそもそもの始まり。 最初は簿記の勉強からスタート。先生の言うことは何となく分かるのだが、テストをやると全くできない。 大学1年の時、簿記の基礎は少しやっていたにもかかわらず、この有様。いずれにしても、こんなところから私の勉強はスタートしたのだ。 それからしばらくして会計士受験の専門学校に入学。ほとんど勉強しないまま次の年の本試験を受けることになる。 問題を少し解いてみたが、「こりゃだめだ」と観念し、友人と一緒に試験の途中で抜け出し、歌舞伎町のとある建物の屋上でやっていたストリップショーを見学。 踊り子さんに舞台に上がらないかと手招きされたのには困った。もちろん丁重にお断りする。考えてみれば、この時、慶応大学の4年生であった。 それから苦悩の日々が延々と続くとは、この時の私は知る由もない。 |
〇朝早くに突然、職務質問を受ける いくら会計士の勉強とはいえ、大学卒業後いつまでも仕送りをしてもらうわけにはいかない。そこで選んだのが築地でのアルバイト。 築地といえば魚、魚といえば築地といった感じであるが、私がやっていたのは厚焼き玉子を自転車で運ぶというもの。何となく軟弱な気もするが、これが意外と大変。 自転車の荷台にリンゴ箱のようなものをセットし、その中に卵が入ったダンボールを1つ入れ、その上に更に4つのダンボールを横にして乗せるのである。 どれぐらいの重さか計算したことはないが、普通に運転していると後ろに引っくり返ってしまうのだ。築地の市場の中は荷物を載せたカートのようなものが引っ切りなしに行き交うので、気を付けていないと横転したり後方宙返りを演じるなんてことは日常茶飯事。 それはともかく、築地の朝は早い。毎日4時半には起きて電車で通うわけだが、ある時、道を歩いていたら突然、サツに職務質問を受ける。 どういうことかというと、仕事の終わる昼頃から図書館に行って勉強するというのが日課になっていたので、勉強のためのテキストを仕事場に持参していたのであるが、朝早くから重い袋を提げていたので不審に思ったのだと思われる。 呼び止められて中を覗かれたが、勉強道具しか入っていない。ことの次第を話したところ、逆に励まされてしまった。「頑張ってるね!」 「ええ、まあ!」 |
〇私の給料は「Twenty thousand yen!」 いろいろ苦労はしたが、どうにかこうにか会計士試験に合格。意気揚々と外資系の会計事務所に就職するも、思い描いた200万円の給料にはほど遠い。 ある時、新幹線に乗っていたら隣に座った黒人から英語で話しかけられる。英会話の本を広げて勉強していたので少しは話せると思ったのだろう。 よく聞いてみると、どうも私の給料の額を知りたいらしい。たまたま隣に座った人に給料の額を聞くのも図々しいとは思うが、会話の練習にもなると思い勇気を出して言ってみた。 「Twenty thousand yen!」・・・思い切ってハッキリと話したつもりだったのだが、相手は「Really?」と言ったまま、黙ってしまった。 |
〇私はお見合いのベテラン! 何事も晩熟(おくて)の私、将来を案じたのか母親が次から次へと見合い話を持ってくる。一番の目的は地元出身の女性と結婚させ、いずれは親と同居させることにあったと思われる。 ところでお見合いのやり方だが、最初から東京で2人だけで会うケースと、お見合いのためにわざわざ帰省して両親ともども会うケースの2つに分かれる。 後者の場合にはホテル等を予約して厳かに行なうので、かなりのエネルギーと出費を要するが、それにしても、こんなことを飽きもせず、よくやったなあと自分でも感心する。 こんな調子でいろいろと苦労を重ねて来ているので、人から、「どなたか良い人はいませんか?」と言われても、適当にあしらうことにしている。 「良い人がそんなに簡単に見つかってたまるか!」・・・てな感じだ。 |
〇転職理由あれこれ 会計士合格後、すぐに外資系の会計事務所に就職したことは上述したが、会計監査の仕事しかやってこなかったので、税金についてはイマイチである。 そんな状況下、開業医の娘と見合いした時、その母親から税金についていろいろ質問を受ける。ところが、こんな状況なので分かるわけがない。 これではいけないと考えた私は会計士の3次試験受験のため、それまでの事務所を辞め試験に没頭。合格すると同時に、税金の実務を身に付けるべく個人の会計事務所に就職。 そこで一通り教えていただくも、しばらくすると、また別のことをやりたくなる。いろいろ考えた末、コンサルティングの実務を身に付けると鬼に金棒ではないかと思い、ある有名なコンサルティング会社に転職することを決断。 早速、電話したところ予想だにしなかったことが発生。何と受付の女性が断ってくるのである。「申し訳ありませんが、ただ今募集はしておりません。」 募集をしていないことは先刻承知しているが、私が就職したいと思っているのだから別に構わないではないかと言ってみたが、どうもダメの一点張り。折角のお買い得品なのに・・・。 仕方ないのでベンチャーキャピタル(ベンチャービジネスに投資すること)の仕事も面白いのではないかと思い、証券会社の関連会社に就職する。1984年、正にバブルが始まろうとしていた。 |
〇いよいよ独立を決断する 上記の会社で2年半勤務したが、もうすぐ35歳になること、いつまでもダラダラしていたのでは時機を失するような気がしたので退職願いを提出。予定より半年後の8月31日に円満退社。 翌日付けで自宅を会社の住所として株式会社鹿谷総合研究所を設立すると共に、公認会計士鹿谷会計事務所の開業届を提出。 元々、会計事務所向けに様々なシミュレーションソフトを開発・販売することを主目的に独立したので、お客様は1人もいない状態でスタートしたが、全く意に介さない。 とりあえず高校時代の友人が紹介してくれた大学での短期集中講座の講師という仕事だけはあったので、初仕事ということもあり気合を入れて教えたつもりだが、生徒によって理解度はマチマチ。 一番前に座って熱心に勉強している生徒の点数が30点にも届かないかと思えば、いつも窓の外ばかり見ているヤツが満点近く取ったりする。 恐らく地頭(じあたま)の違いだと思われるが、いずれにしても、このままでは赤点になる生徒が何人か出てしまう。 こういった場合、どうすれば良いのか友人に尋ねたところ、できなかったヤツは落としたほうが良いということだったので、可哀想な気もしたが数人には赤点を付けることとした。怨んでないだろうか、今だに時々思い出すことがある。 |
〇海江田万里とのチョットとした関係 会社も何となく軌道に乗ってきた頃、ある女性から、今出版しようとしている本の原稿をチェックしてもらえないかという電話があった。その女性が言うには、以前、私が監査をしていた会社の経理部長から私を紹介されたとのこと。 実は証券会社の関連会社に勤務しているとき、近々公開予定の会社の監査をしていたのだが、そこの経理部長からしばしば社長の資産税に関する相談を受けていたのである。 監査を専門にしている公認会計士の場合、法人税に関する知識はそれなりにあるが、資産税のような個人の税務については経験不足のためほとんど知らないケースが多い。 ところが私の場合には個人の会計事務所にいたことがあるし、そのとき勤務していた会社は証券会社の関連会社だったので資産税に関することなら大抵のことは答えられる。 また監査がイヤで外資系の会計事務所を辞めたという経緯もあり、これ幸いと、監査はそっちのけで経理部長の相手をしていた。 こういった関係があったので、出版の仕事を担当していた彼女が資産税に詳しい人を知らないか、その経理部長に相談したところ、既に独立していた私を紹介したというわけである。 ところで、校正することになる本の執筆者は当時大変人気のあった経済評論家の海江田万里氏。その後、男泣きによって評判を落としてしまったわけであるが、やはり男たるもの、仕事で泣いちゃアカンなあ。 |
〇嫁さんとのナレソメ ホームページに家内との出会いを書く人もいないと思われるが、読むのを楽しみにしている人がいるようなので、恥を承知で若干触れておくこととする。 実は上記の「海江田万里とのチョットした関係」に出てくる女性が、その後、私の嫁さんになる人なのである。 したがって、直接のキッカケは経理部長から紹介を受けて私の事務所に電話してきたことから始まるが、普通であれば校正の仕事が終われば、それでオシマイになるケースが多い。 それがなぜ、その後も続いたのか考えてみると、お互いが酒好きであるということと、彼女が営業をしていたということにあるような気がする。 どういうことかというと、彼女は営業職である関係から交際費の枠が月額にして30万円ほどあったそうだが、それを私との飲み会にも費やしていたというわけである。 冷静に考えると、会社の金を勝手に使っていたように感じるかも知れないが、その通りである。申し訳ない。時効ということでご容赦を! |
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